福寿(ふく じゅ)の海(うみ)、無量(む りょう)なり
24×33センチ(半紙) 墨・和紙
文字に力があるのなら 文字を通じて祈りを捧げよう 心を満たす喜びは海の如く 尽きることなく 枯れることなく 寄せては返す波にも似て 千億万億の人びとに 幸福が訪れますよう
本当にいつもきれいな字でほれぼれします。重心が中心にあり、すらりと並んでいて安定された書だと思います。
隙のない美しさを感じます。幸せを連れてきてくれそうな作品ですね。
信念の強さが伝わります。
見飽きのこない美しさですばらしいです。こんなすっきりした気持ちで過ごしたい。部屋に飾りたい作品です。
むんきち様 重心が中心に通った書――ご好評ありがとうございます☆ まっすぐだと、作品を見ていてシャキーン♪としますね。
和紙に書き上げたばかりの時は、紙のシワや引きつれが 目立って字のバランスが悪く見えたり、却って雰囲気に味が 出ているような錯覚を起こしたりするのですが、表具屋さんに 「裏打ち」を施してもらうと全然、書の雰囲気が変わって しまう経験ってありませんか? 注文した作品が戻ってきた 瞬間は、いつも心臓バクバクします。
秀涌様 正確は隙だらけの人間ですが(*´д`)ありがとうございます。文字には、それを伝える相手への思いや祈りがこめられる事で 大きな「力」を宿すものだと、僕は思っています。 一文字の中に、この広い世界のさまざまな現象を言い表す 「力」が内包されている。そう考えてみると書道というのは 不思議な芸術でありますね。
ふざん様 「信念」というものを「信仰」という言葉に置き換えると 確かに自分自身は、信心深い人間かもしれません。お寺の お坊さんの一族の中で生まれ育ったこともあり、日常生活の 中に神仏というものの気配を感じて育ちました。 それはオカルティックなものではなく、たとえば欧米人が 日曜日に当たり前のように教会へ足を運び、ミサに参列する 感覚にも似ています。生まれた時から、そばにあったもの。 そんな感覚(すら当たり前で意識しないのですが)を持って 筆を持っているのだと思います。時には居酒屋のメニューも 書きますけど(笑)
こちく様 「見飽きが来ない」といえば、そんな作品めったに書ける もんじゃなぃな~としみじみ思います。筆を走らせる時の 高揚感(しかも墨まで磨ったゼ! という自助努力に対する ささやかな感動)てふものは、時に、作品本来の姿を 霧のようにモヤのように見えなくしてしまうものだなと。 その感動、熱しやすく冷めやすいとは思いませんが、では 半年経ってからその作品をもう一度見て、本当に良いものか 3万5千円を払って表具するかと聞かれれば、「否」てふ ことが多いように思います。「あれ、曲がってなぃ?」とか 気づいちゃったり。といって真逆のこともあって、大学時代 書き散らした作品の反故が、額縁の裏から押さえ紙になって るのを見つけた時、「この字は今もぅ書けない……」とか 感傷にひたることもあって。自分の審美眼ほど当てにならぬ ものはありませんわ。ハハハ。
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本当にいつもきれいな字でほれぼれします。重心が中心にあり、すらりと並んでいて安定された書だと思います。
隙のない美しさを感じます。幸せを連れてきてくれそうな作品ですね。
信念の強さが伝わります。
見飽きのこない美しさですばらしいです。こんなすっきりした気持ちで過ごしたい。部屋に飾りたい作品です。
むんきち様
重心が中心に通った書――ご好評ありがとうございます☆
まっすぐだと、作品を見ていてシャキーン♪としますね。
和紙に書き上げたばかりの時は、紙のシワや引きつれが
目立って字のバランスが悪く見えたり、却って雰囲気に味が
出ているような錯覚を起こしたりするのですが、表具屋さんに
「裏打ち」を施してもらうと全然、書の雰囲気が変わって
しまう経験ってありませんか? 注文した作品が戻ってきた
瞬間は、いつも心臓バクバクします。
秀涌様
正確は隙だらけの人間ですが(*´д`)ありがとうございます。文字には、それを伝える相手への思いや祈りがこめられる事で
大きな「力」を宿すものだと、僕は思っています。
一文字の中に、この広い世界のさまざまな現象を言い表す
「力」が内包されている。そう考えてみると書道というのは
不思議な芸術でありますね。
ふざん様
「信念」というものを「信仰」という言葉に置き換えると
確かに自分自身は、信心深い人間かもしれません。お寺の
お坊さんの一族の中で生まれ育ったこともあり、日常生活の
中に神仏というものの気配を感じて育ちました。
それはオカルティックなものではなく、たとえば欧米人が
日曜日に当たり前のように教会へ足を運び、ミサに参列する
感覚にも似ています。生まれた時から、そばにあったもの。
そんな感覚(すら当たり前で意識しないのですが)を持って
筆を持っているのだと思います。時には居酒屋のメニューも
書きますけど(笑)
こちく様
「見飽きが来ない」といえば、そんな作品めったに書ける
もんじゃなぃな~としみじみ思います。筆を走らせる時の
高揚感(しかも墨まで磨ったゼ! という自助努力に対する
ささやかな感動)てふものは、時に、作品本来の姿を
霧のようにモヤのように見えなくしてしまうものだなと。
その感動、熱しやすく冷めやすいとは思いませんが、では
半年経ってからその作品をもう一度見て、本当に良いものか
3万5千円を払って表具するかと聞かれれば、「否」てふ
ことが多いように思います。「あれ、曲がってなぃ?」とか
気づいちゃったり。といって真逆のこともあって、大学時代
書き散らした作品の反故が、額縁の裏から押さえ紙になって
るのを見つけた時、「この字は今もぅ書けない……」とか
感傷にひたることもあって。自分の審美眼ほど当てにならぬ
ものはありませんわ。ハハハ。